1952年(昭和27年) 横浜に生まれる。生まれた時すごく貧弱で、叔母に鳥のガラみたいと言われたとか。今で言う未熟児だったと思う。
初孫だったので、祖父や祖母にはかわいがられた。
下の中央の画像は、少し栄養がついた頃の私。で、その右は、かなり栄養がついた頃のもの。今ではすっかりバァさんになった、母との写真。

テーラーだった
祖父は、私が5歳の頃に57歳で他界してしまったが、私のために3ピース
のスーツを作ってくれたりした。当時の写真を見ると、今の私よりお洒落である。

小学校入学の直前に、本牧の本家に引越しをしたが、近所にあったのが、今は無き鉄道模型で有名な篠原模型であった。
そこのショー ウインドーに飾ってあった、ランカスター(だったと思う)の模型(多分ソリッド・モデル)を見て、この趣味の世界に入ってしまった。
もっとも叔父も模型が好きで、通訳と言う仕事柄当時高価だった外国製のプラモデルを沢山作って、ガラスのケースに入れて飾っていた。
その大事な完成品を5歳下の従兄弟をそそのかして、持ち出して遊び、よく壊していた。
親父も飛行機好きで結局環境がこの趣味を選ばせたのかとも思う。

小学校高学年になると、国産のプラモデルも結構種類が増え、せっせと作り塗装をするようになったが、塗料は艶消しの仕方を知るまで、ぴかぴかの艶あり塗装だった。下はその当時の写真で、青木小学校6年生の時に行った、清水キャンプ(山北)の時のもの。
親父はこの写真を見て、「ベトコンみたいだ」と言った。まあ、そう言われりゃ、そんな気もしないではないが...。

その頃は廻りに結構プラモデルを作る友達がいたが、中学生になった時には、2人くらいに減っていた。
当時はレベルの1/72のキットが手に入りやすくなっていて、たまに作っては学校に持っていって仲間に見せたりしていた。
ある日Me262のキットを持っていった時、昼休みになったので見せようとしたら、忽然と消えていた。
後で知ったがクラスの女生徒2人が糸をつけて校庭でグルグルと廻していたらしい。
そのうちの1人、Yまうち Tもこ さんは全日空に就職したと伝え聞いたが、今どうしているのだろう。

高校受験でも模型はやめず、保健体育の授業中に航空ファンを読んでいるのが、先生に見つかり本を取り上げられ、職員室に呼ばれた。
怒られるかと覚悟をしていたが、先生の口から出た言葉は、 オイ 模型飛行機の同好会を作ろう! であった。

その鈴木先生も今は校長になられた。

結局、クラスの仲間の名前を借りて、同好会を設立し、文化際には展示も行った。その時に下級生数名が参加してくれて、消滅する心配は無くなった。
今でもあるのだろうか?神奈川工業高校の模型飛行機同好会。
で、下の画像は高校の修学旅行で九州に行った時のもの。西鉄バスのガイドさんと。
ようやくカラー写真が、一般的になって来た頃である。この頃も女性が大好きであった。

卒業と同時に、今の会社に就職し、オペレーターからシステムズ・エンジニアへと職種は変わったが、趣味のプラモデルは今も変わらない。ニューヨーク州に1年、沖縄に約2・3年仕事で転勤したが、常に模型の仲間を見つけて生活してきた。きっとこれからも変わらないと思う。
しかし昔はスマートだったなぁ〜。今は見る影もないや。